なごみのとき、のどかに花は咲く―『茶をうたう 朝鮮半島のお茶文化千年』に寄せて

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一編の詩を通して、遠い時空の僧侶や文人たちとお茶の時間をともにする。高麗から朝鮮時代の茶にまつわる48編を集めたアンソロジー『茶をうたう 朝鮮半島のお茶文化千年』この春、刊行された。朝鮮の茶のバイブルとも言うべき「東茶頌(トンダソン)」をはじめ、これまで日本ではほとんど接することができなかった隣国の茶文化の精髄を味わうことができる。

韓国で2009~14年に刊行された詩文集『韓国の茶文化千年』を底本に、東国大の朴光賢教授や詩人の韓成禮さんをはじめとする研究グループが日本語訳。小説家の中沢けいさんが監修を手がけ、中国文学者の遠藤星希・法政大学准教授が原文の漢文に読み下し文と訳注をつけた。A4版に余白をぜいたくに取り、漢文と読み下し文、現代日本語の訳が並ぶ。漢文の佇まいと音を感じ、読み下し文で風雅を追い、現代語で意味をひもといてゆく。一編にいくつもの言葉の回路が敷かれ、どこから歩いてゆくか、読書の道行きが自由で、楽しい。

漢詩の世界には茶を謳う「茶詩」というジャンルがある。朝鮮半島でも茶文化の広まりとともに数々の茶詩が生まれた。朝鮮半島への茶の伝播は4~7世紀、中国との交易が盛んになった三国時代のころとされる。高句麗の墳墓からは「青苔銭(チョンテジョン)」と呼ばれる朝鮮式の団茶(茶を平たい団子状に固めたもの)が見つかっており、新羅では王室や貴族など上流階級が野外でもお茶を楽しんだという。高麗の時代になると寺院を中心に浸透し、外国使節の接待には茶の席が欠かせず、香りや味から産地を当てる闘茶会も流行した。麗しい青磁の茶器や、華やかで可憐な茶菓子も生み出され、今も韓国で愛される薬菓(ヤックァ)や茶食(タシク)は当時生まれた茶菓子だ。文人や僧侶たちは茶の詩を書いて交流し、良い詩には王から茶が下賜された。
茶の恬淡とした味わいは禅の世界観に通じた。高麗の僧侶・沖止(チュンジ、1226~1292)の詩「有一禪者答云」は、あるがままの日々に満足する知足の境地を詠んだ「茶禅一味」の心そのものだ。

寅漿飫一杓
午飯飽一盂
渇來茶三椀
不管會有無

朝は柄杓一杯の重湯を飲んで満足し
昼は茶碗一杯の飯を食べて満足する
喉が渇くと三杯の茶を飲むが
たまたま茶が無かったとしても気にかけない

高麗から朝鮮王朝へ移り変わる時代を生きた文人に、李穡(イ・セク、1328~1396)がいる。元の科挙に首席で合格した高麗きっての碩学だったが、朝鮮を建国した李成桂と対立し、不遇の晩年を送った。本書にはその胸中をつづった詩「秋日書懷」が掲載されている。

秋雨蕭蕭送薄涼
小窓危坐味深長
宦情懷思都忘了
一椀新茶一炷香


秋の雨がさあさあと降って 涼しさをもたらす
小さな窓辺に正座をすれば 趣はいっそう深まるばかり
異郷で宮仕えする身の上の愁いは すべて忘れてしまって
一本の線香をたき 杯の新茶を飲む

秋の雨の涼しさの中、ひとり居ずまいを正して新茶を飲む。その清澄な味わいが線香の香気と相まって、宮仕えの憂いは遠くかすんでゆく。中国でも白居易や蘇軾など、官職を追われ左遷された文人たちは、茶に慰められる心をしばしば詩につづった。

朝鮮時代になると茶の栽培は次第に縮小し、喫茶の習慣は衰退してゆく。19世紀になり茶文化の復興に尽くしたのが、禅僧の草衣(チョイ、1786~1866)だ。主著「東茶頌」(トンダソン)は、中国の古典をふまえながら朝鮮の茶(=東茶)の栽培から採取、煎れ方を哲学的につづった韻文で、後段にその真髄ともいうべき一節がある。

眞精莫敎體神分

まことの純粋な水と茶であれば 本体と精神を分離させることはないであろう

さらに、こう続く。

體神雖全猶恐過中正
中正不過健靈併


たとえ本体と精神が十全に調和しても なお心配なのは中庸を超えてしまうこと
中庸を超えなければ 健全さと霊妙さを兼ね備えることができるだろう

草衣自身が付した注によれば、次のような意味になる。
「茶は水にとっての精神であり、水は茶にとっての本体である。まことの水でなければその精神を体現させることはできず、純粋な茶でなければその本体をうかがい知ることはできない」。そして「すべての工程で中庸が保たれなければ茶の玄妙な風味は現れない」という。

草衣の思想のエッセンスともいうべきこの一節を題材にした短編小説がある。全羅南道・長興出身の作家・李清俊の「生まれ変わる言葉」で、映画でもよく知られる連作小説「西便制」(映画邦題:風の丘を越えて)の完結編として書かれた。ある青年と茶道評論家が、草衣が暮らした一枝庵をたずねて茶の心を追体験する物語で、作法だけに捕らわれた茶道はただの形式にすぎず、「茶に人生が染みこんでこそ初めて正しい作法になる」と語り合う。さらに草衣が説いた茶と水の関係を言葉と精神の関係に見立て、現代はとかく言葉が形骸化しがちだが、そこに人の生と精神が溶け込んでこそ血の通った真の言葉たりうるのでは、と思惟する。

ひとことの重みある言葉のように、一杯の茶はそれを取り巻く人の心模様を映し出す。「東茶頌」では、得も言われぬ茶の風味を引き出す手前を「三昧手」と表現している。茶と一心同体になるような三昧の境地からこそ、茶が秘めた味や香りは現れ出る。そして、玄微な中和に至った茶の味わいは刹那に消えてゆくからこそ、尊い。

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さて、本書に収録された近代以前の詩文の原文はすべて漢文だが、訳注を担った遠藤准教授は「中国人が書いたといわれても気づかないほど、朝鮮の文人や僧侶たちの本当に高度な漢文の言語能力を実感した」と振り返る。中国の古典をさまざまに本歌取りして詩を書く、遠藤准教授の表現を借りれば「モザイク画のような」表現手法には、当時の朝鮮知識人たちの知のあり方を垣間見る思いだ。遠藤准教授が本書で特に美しく思う詩は「至月雪水煎茶」(金尚容)だという。

山童帶雪汲新泉
石鼎龍團活火煎
細瀉松聲香滿院
一甌風致爽登仙

ここでは読み下し文も鑑賞してみたい。

山童 雪を帯びて 新泉を汲み
石鼎の龍団 活火もて煎(に)

細かに松声瀉(そそ)ぎて 満院香(かんば)しく
一甌の風致 爽やかにして登仙す

童僕〔※=召使いの子ども〕が雪を身体に積もらせながら 新鮮な泉の水を汲んできた
その水を石の鼎(かなえ〔※=鍋〕)にそそぎ 炭火を熾(おこ)して龍団茶を煮る
かすかな松風の音がふりそそぎ 香りが中庭に満ちあふれ
一杯の茶がもたらす風趣は爽やかで 天にも昇らんばかり

白い雪を体に積もらせて泉の冷たい水を運んでくる子ども、赤々と燃える炭火。釜で茶を沸かすと松林を抜ける風のようなかすかな音が立ち、香りが満ちあふれ、爽やかな風味は天にも昇る心地がする。色彩、温度、香り、音、味覚・・・遠藤准教授は「五感で堪能する茶の時間が見事に描かれている」と言う。作者の金尚容(キム・サンヨン、1561~1637)は朝鮮中期の高官で詩書に秀でたが、朝鮮が清に攻め入られた際(丙子の乱)に江華島で焼身自決を遂げた。壮絶な最期を思うと、この詩に描かれた幸福な茶のひととき、在りし日の束の間の「仙郷」の情景がより際だってくる。

本書にはほかに、朝鮮各地の茶摘みの民謡や、朝鮮通信使が日本で見た茶店の風情をつづった詩なども収録。朝鮮通信使が道中の日本人と漢字で筆談したように、今日も東アジアの漢字文化圏で漢詩を読む楽しみを共有できることは幸福というほかない。

一字一字を読み解く漢詩の鑑賞は、茶葉が湯にほどけ、香りや味がじんわり立ち上ってくる風情に似ている。韓龍雲(ハン・ヨンウン、1879~1944)は、詩「曹洞宗大學校別院」の中で、静かにお茶に華やぐひとときを「閑花茶藹」と描き出した。お茶になごむとき、のどかに花は咲く。窓の向こうに、心の内に。

評者=平原奈央子(西日本新聞社)


『茶をうたう 朝鮮半島のお茶文化千年』
監修=中沢 けい/監訳=朴光賢/訳注=遠藤 星希
サイズ B5判/ページ数 200p/高さ 26cm
ISBN  9784910214177
2021年03月発売

価格 ¥6,380(本体¥5,800)
http://shop.chekccori.tokyo/products/detail/2089